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祭神名・由緒

亀岡神社 旧県社

【御祭神 霊椿山神】

     みなもと とおる
 1代 源  融公
     まつら  ひさし
 8代 松浦 久公
     まつら  なおし
 9代 松浦 直公
     まつら  ひらく
10代 松浦 披公
     まつら  たもつ
11代 松浦 持公
     まつら  つなぐ
12代 松浦 繁公
     まつら  たたう
13代 松浦 湛公
     まつら  ことふ
14代 松浦 答公
     まつら  さだむ
15代 松浦 定公
     まつら  すぐる
16代 松浦 勝公
     まつら  おさむ
17代 松浦 理公
     まつら  なおし
18代 松浦 直公
     まつら  すぐる
19代 松浦 勝公
     まつら  よし
20代 松浦 芳公
     まつら  よろし
21代 松浦 義公
     まつらとよひさ
22代 松浦豊久公
     まつらひろさだ
23代 松浦弘定公
     まつらおきのぶ
24代 松浦興信公
     まつらたかのぶ
25代 松浦隆信公
     まつらしげのぶ
26代 松浦鎮信公
     まつらひさのぶ
27代 松浦久信公
 
28代 松浦隆信公
     まつらしげのぶ
29代 松浦鎮信公
     まつら  たかし
30代 松浦 棟公
     まつらあつのぶ
31代 松浦篤信公
     まつらありのぶ
32代 松浦有信公
     まつらさねのぶ
33代 松浦誠信公
     まつら  きよし
34代 松浦 清公
     まつら  ひろむ
35代 松浦 煕公
     まつら  てらす
36代 松浦 曜公
     まつら  あきら
37代 松浦 詮公
     まつら  あつし
38代 松浦 厚公
     まつら  すすむ
39代 松浦 陞公
     まつら  もとむ
40代 松浦 素公
 

【相殿神】

相殿神
相殿神

【御由緒・創立】

 宝永五年(1708)に第三十代松浦棟氏が建立した松浦家の祖廟霊椿山神社が、居城亀岡の低湿の位置(現在の護国神社付近)にあり、年々破損が大きくなることを深く憂い、平戸藩最後の藩主、松浦家第三十七代松浦詮氏は、新築遷座の計画を立てた。
 
 時あたかも郷社七郎神社、乙宮神社、八幡神社は一応に老朽化が進んでいた。
 それぞれの建て替えには莫大な経費を要するため、氏子たちの財力だけでは達成不能であった。氏子たちの違っての願いにより四社を合祀し、二の丸跡の高台の地に神社を新築遷座することにした。
 
 四社の由緒は次の通りである。
 
 霊椿山神社は、第八代松浦久公、第十一代松浦持公、第十五代松浦定公、第十六代松浦勝公の四神霊を合わせ祀っているが、宝永五年に創建以来松浦家の祖廟として祟敬され、後年十四代松浦答公、三十七代松浦詮公も合祀された。
大正10年5月 第三十八代松浦厚氏により松浦邸神殿より代々の御霊23柱を亀岡神社に合祀する。
平成29年10月24日 第四十一代松浦章氏により松浦邸神殿より第五十二代嵯峨天皇十二皇子源融公、第三十四代松浦清公、第三十八代松浦厚公、第三十九代松浦陞公、第四十代松浦素公を亀岡神社に合祀する。
 
 祭神松浦久は延久元年(1069)朝廷の命により肥前国松浦の地に下向し、宇野御厨検校 次いで検非違使に任命され、上・下松浦郡、彼杵郡の一部、壱岐を治め、地名に因んで初めて松浦姓を名乗った。これが松浦氏の起こりであり、歴史上大変重要な人物である。
 
 松浦持は、田平の峯、平戸、鷹島、小値賀、五島東島を領し小値賀にいたが、1225年頃平戸に移り、館山に居を構え、平戸松浦の基礎を作った。
 
 松浦定は勤王の志厚く、王政復古を企図された後醍醐天皇に終始忠勤を励み、鬼肥州と呼ばれるほどの活躍をした。建武中興に際しては、天皇により大和錦の直垂を下賜された。
 
松浦勝は足利尊氏に忠勤を励み、引輌の旗章を受け、北朝に仕え滝口に補し、左衛門尉に任命された。功により、従三位を追贈された。
 
 七郎神社は平戸市宮の町(現在の宮の町駐車場の位置)にあって、町方の氏神として大勢の人々に信されていた。社領髙は二十石であった。
 
 創立年代は詳らかではないが、『神社帳抜書』によれば、「天平十戌寅年(738)に出現給い、其後天応元辛酉年(781)桓武天皇の御世勅宣により、遣唐使船の安全祈願のため、七郎大権現の勅額を下賜された」とある。
 
 乙宮神社は平戸市岩の上町串ヶ崎(現在のNTTの東側の位置)にあって、郷社として住民の尊信が厚かった。創立年代は定かではないが、社領高は十石であった。八幡神社は平戸市岩の上町(長崎県立猶興館高等学校馬場付近)にあって郷社として信仰が厚かった。創立年代は定かではないが、社領高は十石であった。
 
 八幡神社は平戸市岩の上町(長崎県立猶興館高等学校馬場付近)にあって、郷社として信仰が厚かった。創立年代は定かではないが、社領高は十石であった。
 
 四社の由緒、格式などは以上のようであったが、亀岡神社創立の経緯は次のとおりである。
 
 明治十一年四月付の公文書にて、松浦家祖廟霊椿山神社の遷宮願と、新神社名を亀岡神社とする願が、華族松浦家家扶長崎県二十四大区一小区(当時長崎県は三十五大区二二二小区に分けられていた)士族松山雲八の名で長崎県令内海忠海宛提出された二十四大区戸長市瀬左傳ニよりも採用願の文書が添付された。これに対し、庶第三千七百十九号を以て長崎県令内海忠海より遷宮承認の公文書が発行され、同年四月の公文書にて霊椿山神社、七郎神社、乙宮神社、八幡神社の四社合祀願が、七郎神社祀官兼乙宮八幡両神社祀掌大鳥居大部、乙宮神社氏子惣代安藤藤二、同山鹿伊織七郎神社氏子惣代松浦縮蔵の連名で、県令内海忠海宛提出された。
 
 戸長市瀬左傳ニよりも採用願の文書が添付された。
 
 これにも、明治十一年九月十三日付庶第三千七百八十三号を以て、四社合祀承認の公文書が発行され、亀岡神社は同十二年六月県社格に列せられた。
 
 その筋の許可を得て着工、明治十三年(一八八〇)五月竣工し、亀岡の地名に因み亀岡神社と命名された。
 
 同年五月松浦家当主松浦詮を迎え、厳かに遷宮式を執り行い、また氏子住民により盛大な曳き山、各種の踊などが奉納された。
 
 同神社の総坪数三百六十余坪の敷地の中に拝殿、本殿があり、神楽殿、御札所、社務所がある。
 
 後遷座百年記念事業として社務所新築がなされた。
 
 現在、亀岡神社を含む旧二の丸一帯は亀岡公園となっており、正月、桜祭、秋のお宮日などは大勢の人出で賑わっている。
 
 例年の祭典は大祭、中祭、小祭の三通りがあるが、大祭の中の例祭は十月二十四日より二十七日まで盛大に行われる。
 
 例祭には、昭和六十二年一月国の重要無形民俗文化財に指定された「平戸神楽」二十四番全てが奉納される。神官橘三喜は藩主第二十九代松浦鎮信の命により延宝三年(一六七五)全国各地の一の宮巡詣の旅に出た。帰藩後、在来の神楽に各神社の神楽の枠を取り入れ「平戸神楽」を完成させた。
 
 社宝として大正五年五月に国の重要文化財に指定された「環頭太刀」、他に「明治天皇産着」などを所有している。
 
 平成二十四年八月三日、長崎県景観資産に登録、同八月十三日、亀岡神社本殿・拝殿・登廊・神楽殿が国登録有形文化財に指定される。
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